ゆうくんの古銭ブログ

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藩札は基本的に中々許可が下りず、特殊な例の場合に認められた

 先日の記事で、寛文元年(1661年)の福井藩が藩札を作った最初の藩と説明しましたが、実はそうでない可能性があります。というのは、福井藩は、親藩で家康の次男の結城秀康が藩祖となっています。

 

 つまりこういった親藩が財政的に困っているので、幕府が認めた可能性があるわけで、他の藩は内々に作っていた可能性が大いにあるのです。つまり、「親藩→譜代→外様」の順で禁止されるまで藩札の発行が認められたわけですね。

 

 なお、幕府が藩札発行を禁止すると、不景気になるのは現在の消費増税にそっくりかもしれません。現物100万+紙切れ100万で経済を回すのと、現物100万だけで経済を回すのは、どっちが景気にプラスになるかというわけです。当然正解は後者ですよね。なお、緩和する場合は、大抵は地震が関わっているのですが、それは後日説明します。

藩札発行は、幕府への許可法律作りが前提になっていた。

そもそも藩札が発行されることになった背景は、銭貨が不足していた事にありました。通貨はあるにはあるけれども、江戸などの天領が主体だったわけです。また、江戸時代中期になると、信用取引も増えており、藩札の必要性が出てきました。

 

 記録を見る限り、寛文元年(1661年)の福井藩が初めてといわれています。その際には様々な法整備がなされました。この場合ですと、財政が困難を理由に幕府に届け、承認を得てから発行されたようです。多くの場合は財政の窮乏で、海外貿易の為銀を作りにくい状況があったと思われます。

 

 まず方法を簡単に述べますと、「1・領内では藩札以外の正貨を禁止」、「2・藩内の領民にも使用を強制」、「3・他国者にも使用を要求」するわけです。こうすれば、藩にお金が潤って、流通手段の欠乏も補うことができます。ただし、最初は少額記載だったのですが、どんどん額を大きくしていくことになります。※因みに、当然隠れて使用されていたり、領内を飛び越えて使用されていた例がありますが、これは後に紹介します。

 

 最初のほうこそ、規則は緩かったのですが、幕藩体制が強化されるに至って、幕府の不興を買わないように、自発的に幕府の許可をもらうようになったようです。

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  実に沢山の藩札が現存しています。意外と分厚くて丈夫なものが多いのです。

 しかし中にはペラペラなものがあって、豪華じゃないものがあります。しかし目立たせたいわけで、そこで様々な工夫がなされるのです。

 

 

 

藩札というものをご存知でしょうか?

 

皆さんは、江戸時代の通貨といいますと、小判や銭で取引をされたと考えられている人も多いのではないのでしょうか?確かにそうでありますが、実際には「藩札」という物を中心に取引がされていました。

 

 例えば100両が、ここにあったとしましょう、ある藩に入った際に、交換所で97両分の藩札をもらって、その藩で買い物をするという感じで、帰る際には「藩札」を小判等に替えるといった感じです。(今風に言えばそうですが、実はもっとせこい方法でやっていましたが、これは後日話します。簡単に言えば朝三暮四です。)

 

そしてその取り分が藩の収入になっていたのです。よく藩の収入は米が中心で、お金を軽視していたなんて話がありますが、実際にはこの換金率をうまく活用して、利益を上げていたのです。次の項では藩札の法律について語ります。

 

<表面>

 

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和紙で作られており、結構丈夫です。実はこれ作るのも費用が掛かっていそうです。「銀一匁」と読む事ができます。これを引換所にもっていくことで交換することができます。※中には「〇〇引き」と小さく手数料がかかれているのが面白いです。

 

<裏面>

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発行年と詳細がかかれています。責任者が二人いるのは、親分と子分という関係と思ってもらえればいいでしょう。

 


 

始めに

こんにちはゆうくんというものです。当サイトでは、古銭の歴史や詳細について語っていきたいと思います。様々な貨幣や藩札などが手に入りましたので、それらの裏話などを話していきたいです。疑問などがあればどんどん回答していきますので、よろしくお願いします。